没後100年 青木繁展―よみがえる神話と芸術 [美術館 ARTNEWS アートニューズ]
青木繁、《海の幸》、1904年、石橋財団石橋美術館蔵(重要文化財)
わが国近代絵画史上「天才」と呼ばれ、わずか28歳で夭折したが、その生涯に幾多の名作を残した青木繁。
その青木繁の没後100年を記念した展覧会が京都国立近代美術館で開かれている。
中学生のころ、美術の教科書で見た印象的な作品《海の幸》。重要文化財だ。
この作品に心ひかれたが、いつか見たいと思いながら実物を見ることなく月日が過ぎてしまった。
この《海の幸》には、力強いパワーを感じていたので、青木繁展が始まると聞き、楽しみにしていた。
これだけ有名な絵を残した画家なのにこれだけ大規模でまとまった展覧会は今まで開かれたことがなく、回顧展自体39年ぶりという。
というのも、青木の作品は所在不明のものも含めて約440点と少なかったからであろう。
夏目漱石が青木のことを天才と呼んだにもかかわらず、評価は明治時代ほとんどされておらず、1948(昭和23)年、京都国立近代美術館館長 河北倫明氏による最初のまとまった評伝が刊行されて以後に、ようやく青木の作品の評価が高まった。
そして青木は小説の主人公にもなったのだ。
こうした縁からか京都国立近代美術館でこの展覧会が開かれることになり、青木の代表作《海の幸》は、関西初お目見えだ。
この作品は、よく見ると絵の下に補助線がまだ残っており、未完だ。
にも関わらずこれだけ見る者の目を惹きつける強烈なパワーには圧倒される。
現存する油彩画70点を軸に、水彩画・素描160点を加えた空前の規模で展示されている。
その構成は、没後その伝説の形成から今日にいたるまでの貴重資料も加えて展示されており、彼の生涯が浮き彫りになっている。
青木繁、《わだつみのいろこの宮》、1907年、石橋財団石橋美術館蔵(重要文化財)
当時、パリに留学するのが主流だった時代に経済的な理由から行くことができず、ひたすら日本の図書館で絵の主題を勉強し、絵の技術を磨いた。
子(後の尺八奏者福田蘭童で「笛吹童子」の作曲者)も成した恋人のたねと結婚もできず、経済的問題は青木を苦しめる。
(ちなみにハナ肇とクレイジーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭堂の息子、つまり繁の孫である。)
青木繁、《女の顔》、1904年、個人蔵
そんなの青木の功績は、いまや 間違いなく日本の近代画壇の一翼を担っている。
留学などせずとも、絵は学べる。お金はなくとも芸術は成せる。
西洋画に独学で立ち向かって行く。
そんな彼の人生に共感を覚える人は大いにちがいない。
人間 青木繁にも触れられる大変よくできた展覧会である。
石橋美術館館長にインタビューを行ない、石橋美術館に多く青木の作品が多い理由をお聞きした。
株式会社ブリヂストンの創業者・石橋正二郎氏が1956年、社会公共の福祉と文化向上のために、郷土久留米市に寄贈した石橋文化センターの中心施設として開館したのが、石橋美術館である。青木繁と石橋正二郎氏の出身が福岡県久留米市であることから、郷土の画家の作品を収集したという経緯があるとのことであった。
構成
第1章 画壇への登場─丹青によって男子たらん 1903年まで
青木繁は、1882(明治15)年福岡県久留米市に旧久留米藩士の子として生まれた。1899年には中学明善校を退校し画家を志して上京、小山正太郎の画塾不同舎に入門。翌1900年には東京美術学校西洋画科に入学、当時の同科の教官には黒田清輝、藤島武二らがいた。この頃より、上野の帝国図書館に通い、古事記、日本書紀をはじめ諸国の神話、宗教に関する、あるいは舶載図書によって西洋の古典や最新の美術動向に関する知識を養う。青木が画壇へのデビューを果たすのは美術学校在学中の1903年秋に開催された白馬会第8回展。同展に青木は神話に取材した作品群を出品し、この年の白馬賞を受賞。
第2章 豊饒の海─《海の幸》を中心に 1904年
1907(明治37)年7月、東京美術学校を卒業した青木繁は、友人の画家・坂本繁二郎、森田恒友、恋人の福田たねと4人で房州布良(千葉県館山市)を訪れる。1カ月半の滞在の間に、坂本の目撃談を発端に構想して描いた作品が《海の幸》。黒潮が打ち寄せる土地に、根源的な人間の生命感を感じとった青木が、10人の裸体の男たちが海の恵みをいただくイメージを生み出した。9月に白馬会第9回展に出品され、ある程度の評価を得る。また、点描による外光表現の、生き生きとした海景も描いていて、この海岸での体験が青木にとって実り多いものであった。この年が青木にとって生涯の絶頂であった。
第3章 描かれた神話─《わだつみのいろこの宮》まで 1904-07年
文学を愛した青木が、作品制作の大きな拠り所の一つにしたのが、内外の神話や聖書の物語であった。特に日本神話は発想の大きな源となり、大国主命の蘇生の場面を描いた《大穴牟知命》(1905年)、自身をモデルに英雄的な相貌を際立たせた《日本武尊》(1906年)、そして山幸彦の海宮訪問譚を題材にした《わだつみのいろこの宮》(1907年)が代表的。この時期、福田たねとの恋愛が進展し、二人の間に生まれた息子を「幸彦」と名付けたことも、青木の記紀神話への強い愛着を感じさせる。《わだつみのいろこの宮》は1907年春の東京勧業博覧会に出品され好評を博したものの、主催者からは青木の期待した評価を得らなかった。
第4章 九州放浪、そして死 1907-11年
1907(明治40)年8月、父危篤の報を受けた青木繁は久留米に帰省。これが生涯の大きな転換点となる。その後の青木は、父亡き後の家族の問題や、栃木県に残した遺児に関する福田家との問題になんら具体的解決の見込をつけることができず、一方では中央画壇への復帰を画策しつつその夢もかなうことなく、九州各地を放浪し悲境のなかに自ら低迷していった感がある。そして、1911年3月に福岡市東中洲の松浦内科医院において息を引き取る。
第5章 没後、伝説の形成から今日まで
死を意識した青木は、1910(明治43)年11月22日、姉妹に宛て一通の手紙を書く。そこには、自らの才能への自負、志半ばで死に行く悔しさなどが綴られている。その遺志を継ぐかのように、死の翌年(1912年)には、坂本繁二郎ら友人たちによって遺作展が開催され、またその翌年には画集が刊行された。その遺作展を見た夏目漱石は青木のことを天才と呼び、美術史家の矢代幸雄も彼の才能に注目しました。1948(昭和23)年、河北倫明氏による最初のまとまった評伝が刊行されて以後、作品の評価が高まるとともに、青木は小説の主人公にもなる。この章では、上記以外にも、青木の作品を残し広く世に知らせるために努めた人々に注目している。
会期平成23年5月27日(金)~ 7月10日(日)
開館時間通常の開館時間午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
金曜日の夜間開館日午前9時30分~午後8時(入館は午後7時30分まで)
休館日毎週月曜日
主催京都国立近代美術館毎日新聞社京都新聞社
協賛日本写真印刷
観覧料
当日 | 前売り | 団体(20名以上) | |
一 般 | 1200 | 1000 | 1000 |
大学生 | 900 | 700 | 700 |
高校生 | 500 | 300 | 300 |
中学生以下 | 無料 | 無料 | 無料 |
※本料金でコレクション展もご覧いただける。※障害者手帳をお持ちの方と付添者(1名)は無料。(入館の際に証明できるものをご提示ください)
特別展示森村泰昌《海の幸・戦場の頂上の旗》 映像作品 2010年、作家蔵
(本展覧会会期中、4階コレクション・ギャラリーにてご覧いただける)
巡回先ブリヂストン美術館 平成23年7月17日(日)~ 9月 4日(日)
読者プレゼント 5組10名様にご招待券 プレゼント
あて先 : loewy@jg8.so-net.ne.jp にご住所、お名前、展覧会名をお書きの上どしどしご応募下さい。
発送をもって当選と代えさせていただきます。
いつもながら浦さんの記事には感服いたしております。
宣伝のような記事が多い中で、独自の取材による記事は信頼に値します。
by (2011-06-29 19:53)
浦さんのホームページを読んで青木繁展に行って来ました。展覧会には書かれていないことも浦さんは書いていてくれたのでよりいっそう興味を持って見ることができました。
ありがとうございました。
今後ともいい情報をお願いいたします。
by (2011-07-06 23:29)