いわさきちひろ展~母のまなざし・子どもたちへのメッセージ~ [美術館 ARTNEWS アートニューズ]
毎日新聞創刊140年記念
「いわさきちひろ展~母のまなざし・子どもたちへのメッセージ~」
ちひろの子どもたちが、14年ぶりに神戸にやって来た!
赤い毛糸帽の女の子(1972年)
東日本大震災から1年となる2012年3月31日。
豊かな心のひろがりを感じさせる「ちひろの世界」が、さわやかな春風となって人々に安らぎと希望を与えに兵庫県立美術館にやって来た。
絵本画家のいわさきちひろ(1918~74年)は、「子ども」を生涯のテーマとして創作活動を続け、9000点以上に及ぶ作品を残している。
絵本や雑誌、育児書、教科書などの表紙や挿絵にも登場し、誰もが一度は目にしたことがあろう。
チューリップと子ども(1970年頃)
筆者とちひろの出会いは、絵本「おやゆびひめ」であった。物語の内容以上にちひろの絵に魅かれ、何度も何度も読んだものだ。
幼稚園では、先生に「もう少し本を読みましょう。」と言われていた筆者だが、字があまり読めないことに大きなコンプレックスを抱えていた。
幼稚園のお遊戯会で、紙芝居「鹿の水鏡」を行なったのだが、筆者は字が読めず、丸暗記をした
苦い記憶がある。一緒に紙芝居をおこなった真美ちゃんは、字が読めたので裏に書いてある字を読めばよかったのに・・・。
そんな筆者だが、絵本「おやゆびひめ」は、大のお気に入りで、いつもそばに置いていた。
その絵本画家が、ちひろであったことは、当時、知る由もなかった。
小学生の頃、母がちひろのレターセットを何種類も買ってくれた。「おやゆびひめ」の絵ではないが、その透明感のある絵に惹きつけられ、幼い記憶がよみがえった。
高校生になった筆者は、今度は自分でちひろのレターセットを集めるようになった。
就職して、大阪の支店では、最も社歴が長く、仕事に厳しいことで有名な青木班に筆者は配属された。
筆者は、恐る恐る青木氏に接していたが、大変厳しく、しかし丁寧に指導して下さった。
「ありがとう」と「すみません」をきちんと区別して使うこと、「背中に目を持て」など教わったことは、たくさん、数えきれないほどある。
どうしても口頭だけでなく、手紙で御礼の気持ちを伝えたかった筆者は、迷わずお気に入りのちひろのレターセットで手紙を書いた。
後日、青木氏にお目にかかった時、「心のこもった手紙をありがとう。私もちひろが好きなの。あなたもそうでうれしいわ。」
そこから、青木氏との距離がぐっと縮まった。その役割をしてくれたのが、ちひろのレターセットだ。
ゆびきりをする子ども(1966年)
「世界中のこどもみんなに平和としあわせを」。これは、ちひろの作品に込められている願いである。
この展覧会は、「母のまなざし・子どもたちへのメッセージ」をテーマに、月刊「毎日夫人」(毎日新聞社)の表紙を飾った作品をはじめ、四季折々の子どもたちを描いた水彩やスケッチなど代表作約130点を展示。
また、愛用の品々も置かれた自宅に設けられたアトリエを復元するなど、ちひろ芸術の魅力を余すところなく紹介している。
五つぶのえんどう豆(1972年)
ちなみにちひろのことを知らないという人は、黒柳徹子氏の累計760万部を誇る戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の表紙絵および挿絵の作者であるといえば、すぐに思い描けるであろう。
1981年発刊のこの本とちひろが1974年に55歳で亡くなったこととの関連性に疑問を抱いたため、松方路子氏(安曇野ちひろ美術館学芸員)にお聞きしたところ、以下のような説明をして下さった。
1974年8月9日、黒柳徹子氏は、新聞にいわさきちひろの訃報記事を見つけた。黒柳氏の誕生日であったその日、俳優の坂東玉三郎氏がプレゼントをくださるというので、お返しに用意していたのがちひろの絵本、『あかちゃんのくるひ』であった。
「広げた新聞に涙がポタポタ落ちました。一度もお逢いしたことのない方の死亡記事を見て泣いたのは、初めてでした。この世界から、子どもの味方がいなくなってしまったような気持ちでした。」
その後、黒柳徹子氏は、いわさきちひろの長男、松本猛氏(ちひろ美術館常任顧問)にコンタクトを取り、自著の挿絵にどうしてもいわさきちひろの絵を使いたいと相談し、松本猛氏がぴったりの絵を選び、黒柳徹子氏に提案。
こうして、黒柳徹子氏、いわさきちひろ氏、松本猛氏の三者の尽力で戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』が生まれたのだ。
この本の世界観といわさきちひろの画風がマッチしていたことも、本作品のヒットの一要素であろう。
松本猛氏は筆者の「どんなお母様でしたか。」という質問にこう答えて下さった。
「やさしく、強い母でした。」
立てひざの少年(1970年)
“ちひろのメッセージ”が、より多くの人たちに届き、次の世代へと語り継がれることであろう。
この展覧会は、必見!
麦わら帽子に蟹をのせた少年(1971年)
【会期】 2012年3月(土)~5月6日(日)
月曜休館(4月30日[月]は開館、5月1日[火]は休館)
10時~18時(入場は17時半まで)
【主催】 毎日新聞社、神戸新聞社、ちひろ美術館
【共催】 兵庫県立美術館
【後援】 兵庫県、兵庫県教育委員会、神戸市、神戸市教育委員会、サンテレビジョン、ラジオ関西
【観覧料】 一般 1,000(800)円 大学生 800(600)円 高校生・65歳以上 500(400)円
※中学生以下無料。カッコ内は20人以上の団体料金
【展覧会に関する問い合わせ先】
兵庫県立美術館 TEL:078-262-0901 URL:http://www.artm.pref.hyogo.jp/
毎日新聞社事業部TEL:06-6346-8391 FAX:06-6346-8372
☆巡回スケジュール
<北九州展>
【会期】2012年9月15日(土)~10月21日(日)
月曜休館(9月17日は開館、翌18日が休館。10月8日は開館、翌9日が休館)
9時半~17時半(入館は17時まで)
【会場】北九州市立美術館
【主催】北九州市立美術館、毎日新聞社
【後援】九州旅客鉄道株式会社、西日本鉄道株式会社、北九州モノレール、筑豊電気鉄道株式会社、NHK北九州放送局
【観覧料】一般 1,000円 高大生 800円 小中生 600円
【お問い合わせ】北九州市立美術館 093-882-7777 http://kmma.jp/honkan/
【いわさきちひろ略歴】
1918年 福井県武生市に生まれる。 本名・岩崎知弘。
1933年(14歳) 東京・目黒区目黒に移る。岡田三郎助に師事。デッサン、油絵の勉強を始め る。
1937年(18歳) 小田周洋について藤原行成流の書を習い始める。
1939年(20歳) 婿養子を迎え結婚。夫の勤務地である中国・大連に渡る。夫の自殺により翌年 帰国。
1942年(23歳) 中谷泰に師事、再び油絵を描き始める。
1945年(26歳) 第二次世界大戦により母の実家(長野県松本市)に疎開。終戦を迎える。
両親が北安曇野郡松川村(現・安曇野ちひろ美術館所在地)で開拓を始める。
1946年(27歳) 長野県松本市で日本共産党に入党。上京して人民新聞の記者となり、自らカットも手がける。日本共産党宣伝部・芸術学校に入る。赤松俊子(丸木俊)に師事。この頃、デ
ッサン会などで多くの人物デッサンを描く。
1947年(28歳) 前衛美術会創立に参加。日本美術会、日本童画会のメンバーとなる。
1949年(30歳) 紙芝居「お母さんの話」(教育紙芝居研究会)より出版、翌年文部大臣賞受賞。
1950年(31歳) 松本善明と結婚。翌年、長男・猛誕生。
1952年(33歳) 東京・練馬区下石神井(現・ちひろ美術館・東京所在地)に家を建て、以後22年間この
地で制作活動を行う。
1956年(37歳) 絵雑誌等に発表した作品を対象に、小学館児童文化賞受賞。絵本の仕事として初め
て「ひとりでできるよ」(福音館書店)を描く。
1958年(39歳) 紙芝居「お月さまいくつ」(童心社)を描き、翌年厚生大臣賞受賞。
1960年(41歳) 「あいうえおのほん」(童心社)を描き、翌年サンケイ児童出版文化賞受賞。
1971年(51歳) 「ことりのくるひ」(至光社)を描き、73年にボローニャ国際児童図書展にてグラフィック
賞受賞。
1974年(55歳) 原発性肝ガンのため死去。翌年、未完の遺作「赤い蝋燭と人魚」(童心社)を刊行。
1977年 いわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)開館。
1997年 安曇野ちひろ美術館開館。
☆読者プレゼント
10組20名様にご招待券 プレゼント
あて先 : loewy@jg8.so-net.ne.jp に
件名:展覧会名と会場名
本文:ご住所、お名前
をお書きの上どしどしご応募下さい。
発送をもって当選と代えさせていただきます。
はじめまして。
いわさきちひろ展について書かれたブログを検索していて辿り着きました。
大変丁寧な記事で、楽しく読ませていただきました。
ご自身のちひろさんにまつわる思い出や、黒柳さんとちひろさんのつながりなど、胸を打たれました。
情報だけではなくて、浦さんの心がこめられた素敵な文章ですね。
実は私、29日に兵庫県立美術館で浦さんとお会いしているかもしれません。
ギャラリー館近くのロッカーでお会いして、チケットをいただき、一緒に展覧会をまわらせていただきました。
プロフィールにのせてらっしゃる写真を見て、もしかしたら…と書かせていただきました。
人違いでしたら、申し訳ありません。
では。今後も浦さんの記事を楽しみにしております。
by まゆみ (2012-05-02 10:09)